旧陸軍航空隊官舎・寄宿舎(帯広市緑ヶ丘周辺)
1. 一冊の名簿
上士幌町で自転車店の店舗兼住宅新築の仕事がありました。
工事に先立ち荷物整理を手伝っていたところ、「元北部第150部隊在職者名簿」というガリ版刷りの名簿が出て来たのです。聞くと、ご主人のお父さんのもので、お父さんは太平洋戦争の時、志願し『軍属』として陸軍航空隊で爆撃機のエンジン整備をしていたというのです。14~15歳だったといいますから、中学3年生頃でしょうか。そしてその頃起居していた軍の宿舎が現在の緑丘小学校の向かい側一帯にあったのだそうです。
驚きました。
「公園」「動物園」「美術館」など文化的な施設が多く設置されている緑ヶ丘一帯は我々のような戦争を知らない帯広人にとっては軍隊や戦争とはかけ離れた平和で文化的なイメージの地域ではないでしょうか。そこに軍の部隊があり、その官舎・宿舎があったというのですから。まさに「想定外!」でした。
2. 軍用引き込み線
なにか裏付けるものは?と探すうちに昭和29年の帯広市の地図に根室本線から競馬場の脇を通り現在の自衛隊の辺りまで延びている線路があるのを発見しました。いろいろ調べて見るとこの線路は利別からさらに分岐して当時池田町豊田にあった「陸軍第六野戦航空修理廠」まで繋がっていたのだそうで、緑ヶ丘にはやはり飛行場があったのでした。
3.現存する旧陸軍航空修理廠宿舎(池田町豊田)
池田町の資料にかつての陸軍航空修理廠の配置図がありました。それによると、上空から発見されづらいようにと山陰や林の中に配置されたたくさんの倉庫群と、修理や製作の工場の他に木工、板金、鍛冶工場や発電所も付属する本格的なものです。近くを通りかかったおりに地元の人に、唯一現在残っていて民間で使用されている建物を教えていただきました。旧軍の官舎だったという木造の建物で、戦中・戦後の約70年がんばり続けている建物です。
4.帯広飛行場(緑ヶ丘)
「帯広市史」に飛行場の写真がありました。コピーのコピーなのではっきり見えないかも知れませんが、無舗装の広場(野原ともいう)に三機の複葉機が写っています。今の感覚で見ると「えっ、これが飛行場?」といった感じですが、小さくて軽い複葉機の時代にはこの程度で問題なかったのでしょうね。これといって比較できるものがないのでここが緑ヶ丘だとは確定できないのですが、地元の人の話では画面右手奥に写っている低い丘が現在の美術館のある丘ではないかということでした。
飛行場の存在を示す具体物は無いか公園内を探したところ「御親閲場址碑』がありました。市史に「1936年の陸軍大演習の際、昭和天皇が帯広飛行場を会場に分列行進を親閲した。」とあるので、やはりここに飛行場があったのは間違いないでしょう。ちなみに緑ヶ丘飛行場は1932年(昭和7年)、当時まだ町だった帯広が五千円の町費を出資して着工、翌年1933年竣工。同時にこの年は帯広が市になった年でもあり、東京、札幌と結ぶ空路の一翼を担うという十勝人の夢実現への輝かしいスタートを切ったわけですが、翌1934年には軍用に転用されてしまいます。そこで帯広市は音更雄飛ヶ丘に「市設帯広第二飛行場」を建設するというしたたかさを見せるのですが、経営難もあってこれもまもなく軍に強制接収されてしまいます。
この後、1937年から緑ヶ丘一帯は軍用地となり、現自衛隊の位置にさらに軍用飛行場が建設され、おりから中国大陸・太平洋と戦争を進める日本の軍事の一端を担うことになるなるわけですが、敗色濃い1944年には帯広に野戦師団司令部が設置され、同じく第一飛行師団も帯広に進出し、帯広は北海道防衛の中心地となったのでした。
本土決戦にならないうちに戦争が終わってくれてなによりでした。
同師団は重爆撃機の部隊だったそうで、坂井自転車店のお父さんはそこで「呑竜」(陸軍100式重爆撃機)のエンジンを整備していたそうです。
「呑竜」写真で見るとずいぶん大きそうでこんなのが750kgから1tの爆弾を積んで頭上を飛び交っていたのかと思うとあまりいい感じはしません。思わず沖縄のことが頭に浮かびました。
5.緑ヶ丘旧陸軍官舎・宿舎のなごり探し
昔、私がまだ工務店に勤めていた頃ですからもう32年ほど前になりますが、担当していたYさんのお宅が丁度「緑ヶ丘」でした。もう、うっすらとしか覚えていないのですが、たしか高校生の娘さんがいらっしゃったように思います。今更ですが、この工事の間何度もこの地域を行き来していながら特に周囲に注意をはらうこともなく終わってしまったのが悔やまれます。当時ならまだ旧陸軍関係の官舎・宿舎など建物が残っていた可能性は十分あったはずで、古い建物に興味のある自分にとっては痛恨の思いです。あきらめの悪い性格なのでしょうか「もしかしたらまだ?」と官舎・宿舎があったという緑ヶ丘小学校向かいの街並を歩いてみました。
戦後すでに70年です。もちろん当時のものがそのまま残っているとは思いませんでしたが、途中散歩している地元のお年寄りに出会い、以前は内玄関の八軒長屋形式の集合建築やたくさんの官舎・宿舎があったことや、いつも飛行機が飛んでいた方角などお聞きすることができました。
もしかしたら写真のような
・間口が極端に狭かったり、ときには軒が重なっている建物
・外観が池田にある「旧陸軍第六野戦航空修理廠」の宿舎だったという建物に似ているもの
・外壁や屋根材が部分で異なっている建物
などが
「もしかしたらかつての軍の建物が敗戦、軍の解体を機に民間に払い下げられた後の姿かな?」と思ったのですが勝手な妄想だったのかも知れません。
古い水道管
緑ヶ丘の街の空き地にすっかり錆び付いた水道管が突き出ているのを見かけました。
帯広で水道の敷設が始まったのは昭和27年を待たねばなりませんが、緑ヶ丘はじめ大川町、依田町などの軍隊関係の官舎・宿舎、施設設備のあったところではそれ以前から水道が引かれていたそうです。とするとこの錆びた水道管、もしかすると戦争前からのものかも知れません。
6. 十勝の航空と軍隊
上士幌町の自転車屋さんの物入れの奥から出て来た「ガリ版刷の名簿』がきっかけで、軍関係だけでなく帯広・十勝の航空の歴史について知ることができました。
中でも驚いたのは1925<大正14>年、すでに音更(当時は村)に地元有志によって民間の飛行場が造られていたことです。保有機数1機から始まり最終的には3機体勢にまでなりますが、結局は経営不振で途絶えてしまったのが残念です。北海道で最初の民間飛行場で当時の帯広の人口は2万人ぐらいだったそうですからたいしたものです。
以下に帯広・十勝の航空・軍隊との関わりを整理して年表にしてみました。
1933(昭和8)年、今度は帯広に市設の飛行場(緑ヶ丘)が建設されます。
残念なことにこれはまもなく軍に移管されてしまいます。2年前の1931年に柳条湖事件、前年が満州事変と連続的に中国への侵略を進めていた時期、軍部の勢いも強かっただろうし、以前から軍を誘致したがっていた(らしい)帯広の希望とも一致したのかも知れません。
緑ヶ丘飛行場を失った帯広市はすぐ音更雄飛ヶ丘に新たな市設飛行場の建設を始めます。帯広第二飛行場と呼ばれたようです。しかし、戦争に突き進む日本の国策からかこれもすぐに軍に転用されてしまうのです。(このへんの事情は「音更町史』「帯広市史』に詳しいので、興味のある方は読んでみて下さい。)
それにしても大空に憧れる十勝人の覇気を感じます。今から思えば二枚翼の頼りな気な飛行機でしたが、それでも青空に舞い上がる機影は地面に張り付いて生活に汗していた当時の十勝人に少なからぬ希望と勇気を与えてくれたのではなかったのでしょうか。
戦争が無かったら?
当たり前の事ですが「時間の経過」は長くなると「歴史」です。その時は空気のように漂っているので誰も立ち止まらず、それを語ろうとはしません。もし立ち止まり語る人がいると「ちょっと違う人?」なのかもしれません。私はできればまだ空気のように漂っているうちにそれを語りたいと思うのですが。
参考にさせていただいた資料
日本建築学会北海道支部研究報告集No.75(2002/6)「旧陸軍第7師団施設調査研究」
WEB TOKACHI(2006.08.11)「記者が見た戦争」、「音更町史」「池田町史」「帯広市史」