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旧北海道開墾合資会社厩舎(清水町熊牛)

 道道音更~新得線から熊牛の集落へ入り、北海道高等芸術専門学校(旧熊牛小)グランド南側の道を東に向かうと「寿光寺」という寺の前をすぎしばらく行ったところに『旧十勝開墾合資会社厩舎』という古い立て看板がありました。
 「十勝開墾合資会社」?と思いながら、そのままゆるい坂を上って行くと突き当たりに「SHYBUYA FARM」という農場があり、みごとに繁った木の下に古い説明板がありました。これによれば、この辺りは明治時代に渋沢栄一氏によって設立された『十勝開墾合資会社農場』(渋沢農場と呼ばれたらしい)があったところで、その木造の厩舎が現在も使われているということでした。

渋沢栄一氏(1840~1931)

 天保11年埼玉生まれ。慶応3年(1867)パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(慶喜の弟)に随行し、株式会社組織や金融制度など経済政策への見聞を深めた。明治2年(1869)新政府で国策立案に関わり、官業を創設に尽力。退官後、第一国立銀行の頭取,王子製紙など多くの近代的企業の設立と発展に寄与した。大正5年実業界から引退後も社会公共事業や国際親善に力を注いだ。基本的に民業主体という近代的な会社資本の考え方を持ち財閥を作らない経済人で、「近代資本主義の父」と呼ばれた。
 北海道の振興も民力に委ねるべきと訴え、1898(明治31)年、社長に渋沢喜作(いとこ)、農場長に札幌農学校でアメリカ式農業を学んだ町村金弥(町村金五・元道知事の実父)を抜てき、「十勝開墾合資会社」を設立。
機械を用いるアメリカ式大農法を成功させ全国の農業改良につなげる考えだった。また産業を支えるには輸送手段、教育、働く者の心の支えが必要とし、鉄道誘致、学校・寺の建設なども行った。
 1929年の大恐慌以来、小作争議が全国で多発すると、氏亡き後の三代目の農場長は渋沢氏の遺志として、1934年、率先して農地解放を行い、1936年「十勝開墾合資会社」を終了させた。

 以上、主として『清水町100年史』より

旧北海道開墾合資会社厩舎
旧北海道開墾合資会社厩舎
旧北海道開墾合資会社厩舎
旧北海道開墾合資会社厩舎

説明要旨

 明治30年(1897年)、渋沢栄一ほか十名が十勝川沿岸の約三千五百万坪(11,570ヘクタール)の貸付を出願。翌年社長に渋沢喜作(北海道製麻会社社長)、農場長に町村金弥を配置し十勝開墾合資会社を設立した。当時熊牛農場の厩舎として建築した建物がその後一部改築され、現在も厩舎として使用されている。

 鉄道(河西鉄道熊牛駅)はすでに廃線になっており、明治34年に建てられた熊牛小学校も平成17年に廃校となっていたが、寺(寿光寺)は現在も残っている。

旧北海道開墾合資会社厩舎
旧北海道開墾合資会社厩舎
旧北海道開墾合資会社厩舎
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