タモの樹に支えられている小さなレンガの家
川西から中札内への裏道に小さなレンガの家があります。近寄って見ると長い間放置されていた家らしく、窓もベランダもガラスは全て割れ落ちながら、構造がレンガのためか朽ち果てずに残っているのです。中に入ると,台所のかまどや風呂もレンガで組まれています。浴槽はなぜか大小二つあって、「小さい方は上がり湯用だろうか?」など想像も膨らみます。レンガ組も工夫されていて、建て主の愛情が感じられます。
日高山脈に沈む夕日に赤く照らされた小さなレンガの家が樹の陰にポツンと立つ姿はとても印象的で、もう10年ほどずっと気になっていたところ、昨年末、この近くの農家から建て主が「高嶋さん」とおっしゃること、また高嶋さんご夫妻が現在も帯広市在住と聞き、さっそくお伺いし当時のお話をいろいろ聞かせていただきました。
高嶋さんは昭和22年、この土地で農業を始めるにあたり最初、木造2階建(1階:4部屋、2階:2部屋)の住宅を建てました。しかし、当時の木造住宅はあまりに寒かったので10年後レンガ部分が増築されました。高嶋さんは昭和40年に離農されるのですが、それまでこのレンガ部分が夫婦と子供3人、5人家族の生活の中心となります。
離農の理由は、当時「10~20町歩の農地ではこれからは食べて行けない」との国の方針に基づいた「農地拡大地区」の指定があり、十勝で最初に指定されたのがこの大正地区でした。高嶋さんの地区では6件の農家の内、5軒が離農ということで、農業委員をされていた高嶋さんは自分から手を上げたそうです。その後農地が集約され、高嶋さんの家のうち住宅の木造部分、馬小屋(間口16軒、約29m)などは解体されたが、農作業時の休憩小屋としてレンガ部分だけが壊されずに残ったのだそうです。
建築は帯広の菅野建材(今は無い)さんに相談、野幌のレンガ会社を紹介してもらいました。野幌からはトラツク1台分のレンガと職人が一緒に来てレンガを積み、高嶋さん自身も流し台、風呂のコンクリート、タイル貼りなど、農作業の後、夜おそくまで自分の手で造ったそうです。風呂釜の煙もただ煙突に逃がすのではなく、浴室の床下や浴室と居間の間の床下を這わせてから排煙するようにして「ミニオンドル」として暖房にも使っていたそうで、奥さんが「お父さんは凝り性だから・・・」というのもうなずけます。
関西に嫁つがれている娘さん御家族が遊びに来られた時に「お母さんが生まれ育ったレンガの家」の前で3代の家族で撮影した写真。離農の時には無かつた樹齢45年ほどのタモの大木が壁に張り付くように立ってる。
お邪魔ついでに、気になっていた大小2つある浴槽の理由を聞いてみると、「上がり湯」のためではなく、「小さな方は子供が遊べるようにと思って造った」との返事にいささか驚きました。いくら凝り性だからといって、ここまでのこだわりは何でしょう。「家族皆が温かいレンガの家」「奥さんの水仕事が楽なタイル貼りの流し台」「子供が遊ぶ浴槽」・・・当時、誰もが経済的にはさほど豊では無かった時代です。
お金のゆとりというよりは「心のゆとり」ということなのでしょう。いずれにしても「家づくりとは?」を改めて考えさせられました。
現在78歳におなりの高嶋さん。テーブルの上にはニコンの1眼レフが置いてありました。聞くと「風景の撮影が好きで、レンズにお金は惜しまない」とのこと。まだまだ「凝り性」全開のご様子でした。