コッホさんの家
(川上郡清水町下士幌基線70)
1. 道端の看板
昔、熊牛(清水町)のあたりの現場で仕事をしていました。ある日、通りかかった農道の脇に「コツホの旧住宅」と書かれた看板を見かけました。場所は清水町下佐幌基線70の辺りです。看板から続く道先にそれらしい建物(写真中央)が見えます。



ベルを押すともう60年ほど住まれているというお年寄りが出てこられ丁寧に説明してくれました。まだまだ現役のこの木造住宅、もちろん途中何度も手を加えてはいるのでしょうが、当時すでに築80年、今では90年を越す建物です。
2. コッホって誰?
さて、そのコッホさんですが、1923年(大正12年)に北海道が農業振興のために外国から招請した4人の農業技術者・指導者の中の1人で、ドイツから甜菜(ビート)の栽培農家として招請されました。このとき,他に同じ甜菜の栽培農家としてドイツからもう1戸が帯広に、またデンマークから有畜農業の指導・育成を目的に札幌地区に2戸がいずれも5カ年契約で招請されました。これは、当時あまり効率の上がっていなかった北海道農業に農業先進地の技術を普及させること、中でも十勝に招請された2軒の甜菜栽培農家は一旦挫折しかかっていた日本の精糖業、甜菜(ビート)の作付け推進を目的に行われたものでした。
3.コンクリートの犬小屋
お話を聞きながら庭に目をやると、コンクリートの大きな箱があるのです。屋根の部分はアーチになっています。「何ですか、あれ?」とお尋ねしたところ、「私がここに来た時にはもうありました。コッホさんの犬小屋だつたのでは?」との話。「コンクリートの犬小屋」(?)「ドイツ人ってどんだけ犬好きなんだ!?」 あまり釈然とはしなかったのですが、私の性格の一つに「何だ、これ?!」となっても、未解決のまま何時までも引きずるところがあります。「あっ、そうか!」が出てくるのに時間がかかるのです。セカセカしない余裕の人生…と思うことにしてはいるのですが。
4.10年+αの時が流れて
今回は解決までほぼ10年が必要でした。
2年程前、足寄町「ありがとう牧場」(※施工例参照)の庭先に依頼されたピザ窯を造るのにレンガを積んでいたとき、ふと、この形はどこかで見たような?…思い浮かんだのが、「コッホさんの犬小屋」でした。レンガとコンクリートの違いはあるのですがドーム型の屋根といい、全体の形といいそっくりです。あのコンクリートの犬小屋は「ピザ窯」ならぬ「パン窯」だったのではないか?。思えば「コツホ旧住宅」周辺は今も商店とは無縁なところ。まして当時 焼きたてパンの店があったとは考えられません。とするとドイツから来日し、あそこで7年間(※)営農されたコッホさん一家6人にとってパン窯は必需品だったはずです。 (※招請は5年の契約だったが2年延長された)
5.消えた犬小屋
実はコッホさんの次女ヘルタさんが日本の青年と結婚されて残ったのです。現在八雲町にお二人の長男、三澤道男さん(コッホさんのお孫さん)が住んでいてパン釜を引き取ったのでした。十勝、清水町の「コッホの家」で家族の糧を焼いていた「パン窯」は90年の時を経て、お孫さんにバトンタッチされたことになります。
休みに訪問させてもらったのですが、三澤道男さん元気な78歳でした。『三澤牧場』の住居は豪快な居間の空間や渋く錆びた球形の大きな薪ストーブ、壁に貼られた家族の写真など住居も『開拓者の家』がピッタリでした。
道男さんにお会いして、大変失礼なのですが私は以前からの友人に会ったような親しみを感じました。また、2014年当時まだ学生さんだった道男さんの息子さん(コッホさんから見て曾孫(ひまご))が運んだパン窯でパン焼きを体験したことで触発され、現在神戸でパン焼きの修業をしているとか、コッホさんのパン窯は作られてから90年を過ぎた今、また新しい家族に夢・目標を示している。すごいですよねえ。
伺ったお話
コッホさんご夫妻には男2人,女4人のお子さんがいて、一家がドイツへ帰国する年、次女のヘルタさんが酪農家志望の日本人青年、三澤正男さんと結婚、日本に残った。結婚が昭和5年11月29日、一家の出発が12月4日。「家族を横浜まで見送ったのが私たちの新婚旅行でした」というヘルタさんの話が残っている。
三澤正男さんは有畜農業の自営を心ざし、モーテン・ラーセン氏(※コッホさんと同時に札幌真駒内に招聘された)の農場で学んでいた。ラーセン氏とコッホ氏は親交があり、ヘルタさんに会う機会もあって結婚に至った。
二人は昭和9年下音更村入植を振り出しにヘルタさんが後に「死のうと思ったことも何度もある」と語っているほどの苦闘を続けた。その間農民運動にも深く関わり、また国内外のホルスタイン系の共進会で数多くの賞を受賞もしている。後に移住した八雲町では昭和17年に町議会議員、昭和22年には道議会議員も務め、北海道農政振興にも尽力した。昭和28年、正男、ヘルタの夢は『株式会社三澤牧場』として結実したのだが、翌年9月26日、出張のおり乗船していた青函連絡船洞爺丸が台風のため遭難、正男氏は帰らぬ人となった。

三澤正男氏とヘルタ・コッホさんの結婚式

正男氏とヘルタさん
八雲の自宅前で

コッホさんの犬小屋ならぬ
パン窯(八雲にて)
とにかくコッホさんのお孫さん三澤道男さんは「カッコイイ」人でした。
たくさんのお話を聞かせていただき食事までご馳走になって帰って来ました。
7.フリードリッヒ・コッホという人
偶然見かけた小さな看板が「まさか」のロマン溢れる歴史に繋がっていました。あまりにも興味深い話だったのでコッホさんと北海道の関わりに付いて調べて見ました。
話は明治に入っての蝦夷地開拓からはじまります。
1.コッホさんはなぜ十勝にいたのか
明治政府が開拓使を設置し本格敵な蝦夷地開拓を始めたのが明治2年(1869)です。ちなみに「蝦夷地」が「北海道」となったのもこの年のようです。翌明治3年(1870)には黒田清隆が開拓次官となり、「ホーレス・ケプロン」、「エドウィン・ダン」を招聘。北海道各地に開拓団を入れ本格的に農業開拓が勧められたのですが、当時は広大な原生林を切り開く段階で出る木材を売ることを目的に、跋根もせず落ち着いた農耕もせずに新しい土地を求めて異動してしまう農家(?)やまた元々土地が肥えていたので施肥等養生もなしに連作し5~6年して地力が落ちると新しい土地に移るという流れ農法(?)的農家も多く見られたようです。
大正6年(1917)になって地力の衰えを回復させるため有畜農法の普及を意図した「北海道第2期拓殖計画」が立てられます。大正11年(1922)には有畜農業の実績のあるデンマークの模範農家を招聘。翌大正12年(1923)には同じくデンマークからモーテン・ラーセン、エミール・フェンガーを札幌に、十勝には当時甜菜(ビート)製糖の技術の高かったドイツからウィルヘルム・グラバウ(30歳4人家族)と、フリードリッヒ・コッホ(43歳6人家族)を招聘しました。
ここで初めてコッホさんにたどり着きました。十勝の産業、「甜菜糖」(ビート)の歴史でもありました。(※『ビート資料館』〒080-0831 北海道帯広市稲田町南8線西14番地)
2.コッホ氏とグラバウ氏(十勝の甜菜製糖)
甜菜(ビート)による製糖は明治初年から札幌で取組まれていたのですがうまく行かず、一時は廃止の動きも有ったそうです。しかし第一次世界大戦でヨーロッパが荒廃し甜菜の生産が壊滅的となり、世界的に砂糖の需要は急騰したため日本は方針を転換。精糖業の立て直しをはかり、大正12年甜菜製糖の先進国ドイツからフリードリッヒ・コッホを十勝清水町(当時人舞村)の明治製糖所所有地に、ウィルヘルム・グラバウを帯広の北海道製糖会社所有地にを招聘したのです。連作を嫌う甜菜(ビート)に広い土地が得られる十勝は適地でした。
ここではパン窯の持ち主だった「コッホ氏」について書きますが、彼は特に研究者とか学者ではなく、小学校卒業後ドイツの製糖会社甜菜部に勤務、ビート栽培技術者として高い評価があった人で招聘当時43歳。妻ベルタ43歳、長男オットー20歳、次男リヒャルト18歳、長女エルナ16歳、次女ヘルタ14歳の6人家族。住居にしたのは清水町下佐幌基線70番地で、ほぼそのまま現存している。
住宅はドイツの農家を参考に2階建(24坪)。畜舎(40坪 7舎)。豚舎(5坪)。倉庫(40坪)。「混合農業経営」で、甜菜を中心に家畜、家畜人参、燕麦、麦類、トウモロコシ、豆類、馬鈴薯、クローバーなどを扱っていた。
コッホ一家は十勝の生活になじみ契約期間を延長して7年間を十勝で過ごし、ドイツに戻ったのは昭和5年(1930)でしたが、この年、次女ヘルタさんが三澤正男氏と結婚し日本に残ることになります。
3.三澤正男という人
10年ほど前、通りがかりの小さな看板に誘われて目にした築80年ほどの古い住宅と庭に置かれたコンクリートの箱。10年後それが壮大な歴史ドラマを語ってくれるとは夢にも思いませんでした。
遠く日本まで農業技術を伝えに渡ってきたドイツ人一家。新しい農業を起こそうと夢見る日本人青年、三澤国男さん。そして彼とドイツの娘さんヘルタさんとの国籍を越えての結婚。開拓農家として農民運動家としての労苦を乗り越えての成功。まるで『マッサン』の様なハッピーエンドのサクセス・ストーリと思ったら、念願の牧場を開いた翌年正男さんが遭難死されてしまう悲劇。だが90年後の今日、コッホご夫妻のパン窯が、孫、曾孫(ひまご)の手によって火を点され再び熱々のパンを焼き始めたという。
「事実は小説より奇なり」・・・つくづく感じさせられました。
参考にさせていただいた資料
・北海道・マサチューセッツ協会発行(HOMASニューズレター日本語版No.54)
・日本甜菜糖株式会社「ビート資料館」資料
・三澤道男氏著「酪農余滴」(三澤正男遺稿集)