イタラタラキ駅逓所跡
帯広を南に抜け、106号線を「とかち帯広空港」の脇を通り抜け「道の駅さらべつ」まで1.6キロぐらいのところに、車だと一瞬で通り過ぎてしまうような川があります。河川名の表示板に「イタラタラキ川」とあります。この河川名の下に「イタラタラキとはアイヌ語で”地面がユラユラゆれるところ”という意味」とあります。また、この橋を抜けたところに『イタラタラキ駅逓跡』の石碑、その後ろに『イタラタラキ駅逓所跡』の説明板がありました。つまり「イタラタラキ=ユラユラゆれるところ」に駅逓所(宿泊施設)があったということです。
『イタラタラキ駅逓所跡』の説明板
十勝は明治29年(1896)植民地解放となり、下帯広、現在の帯広市が十勝の中心として位置づけられた。しかし、道路は大津から一本道のみで、十勝川流域は船便に頼るしかなかった。
明治30年帯広から十勝で最も古くて当時繁栄を誇っていた広尾に至る仮定県道を設けることになり、途中札内川・日方川など川幅の広い所は、渡船とし、道路幅を十二間として側溝が掘られた。
明治31年4月1日、この仮定県道の中間地点にイタラタラキ(以平)駅逓が、滋賀県野州郡中州村出身の吉川茂吉氏が取扱人として開設された。
大正3年(1914)拓殖道路が仮定県道に編入され、大正5年、イタラタラキ駅逓はその歴史的任務をおえた。
駅逓の制度
長旅のための宿泊や人馬継立などの便宜を与えるもので、開拓途上の北海道にあって、この駅逓の果たした役目は大きい。
駅逓には、駅舎と官馬牝二頭・牡一頭・採草地が貸与された。
1. 地面がユラユラゆれるところ
アイヌの人たちはどうしてこの土地を「地面がゆらゆらゆれるところ」と言ったのでしょう?
現地は現在浅い川が枝分かれしながら流れていますので,150年ほども昔なら広大な湿地帯だったのかもしれないと思ってもみたのですが、でもそれだと「ユラユラゆれる」よりは「ぐちょぐちょ埋まる」とか「水におおわれたところ」とでも呼びそうです。
更別村の資料の中に答えがありました。
このイタラタラキ川周辺は「十勝坊主」というこぶ状の地形におおわれた土地で、こぶの中の空気や水分がクッションの役割を果たし、この上に人が乗ると地面がゆらゆらゆれるため、このように呼ばれ、欧米でも谷地坊主の地形を『アースハンモック』と呼ぶのだそうです。たしかに「ユラユラ」ゆれそうです。
<資料> 十勝坊主(=谷地坊主)
十勝坊主は永久凍土層上部の土壌(火山灰土)が凍結と融解を繰り返すうちに、こぶ状に盛り上がった形となったもので、欧米でも同様な地形が見られ、アースハンモックと呼ばれている。十勝管内では数箇所で確認されており、特に帯広畜産大学構内のものは天然記念物に指定されている。イタラタラキ地域の十勝坊主分布地は、北海道の学術自然保護地区(勢雄地区)に指定されており、周辺の原始林、植物群落とともに貴重な自然環境を形成している。
(『農林水産省サイト/2 化石構造土:北海道更別村』より抜粋)
2. 北海道は植民地だった
説明板の文中に「十勝は明治29年(1896)植民地解放となり・・・」とあるのだが、とするとそれまでの北海道(十勝)は「植民地」だったということなのか?
植民地とは
「本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土」のこと。(Wikipedia)
幕末からの北海道を追ってみたが、「北海道を植民地とする」というような表記は見つけられなかった。江戸時代の北海道(蝦夷地)は松前藩の管轄下にあったが、主な住民であるアイヌ人は松前藩に属しているわけではなく、むしろ藩直轄の交易の相手として対等な関係にあったらしい。交易による利益が大きくなるにつれ、松前藩だけでなく商人たちも進出、武力を背景に、しだいに不平等・搾取的なものになっていった。幕末にはアイヌ人を漁場・鉱山などで奴隷労働させるようなこともあったという。まさに植民地状態だが、法的・制度的に北海道植民地はあったのだろうか?
「1898(明治31)年の勅令第37号に「北海道殖民地」の語が使用されている」という記述がいくつかのサイトで見られたが、勅令そのものは見つけられなかった。ただ、帝国議会において当時日本の領土だった「朝鮮」についての質問に総理大臣が「植民地」という言葉を使って舌禍問題になり、「領土」に言いなおしたことがあったというから、実質は植民地だが、外向けの表現はあくまでも「領土・国土」の語を使った・・・というのが真実だったのかも知れない。
昔、お年寄りが本州を「内地」と呼ぶのを聞いて不思議に思ったが、実に北海道は大日本帝国の憲法やその他の法律の外(徴兵制度もなかった)の土地、領有する大きな島「内国植民地」の位置づけだったのが、内地からの移民の数が増え、準備の整った地域から徐々に植民地解放され内地なみの扱いになっていった・・・のだろう。
3. 道路幅十二間
札幌で大通を通るたびに、開拓期の札幌にあの道路を通した明治人のスケールの大きさを感じます。しかし、今回の掲示板の「仮定県道の道路幅を十二間として側溝を掘った」という記述にはびっくりです。道路に関わる仕事をしている人はともかく、一般の人なら道路幅十二間と聞けば約20メートル幅の道路を思い浮かべるのが普通です。明治30年代の北海道、ほとんど人力の時代に原始林を切り開き,丘を削り湿地を埋め・・・幅20mの道路を広尾~帯広に通したのだ!と思うのではないでしょうか。いくら明治人でもスケールが大きすぎです
ここに書かれている「道路幅」は「道路敷地幅」のことです。では当時の実際の道路幅はどの程度のものだったのでしょう。
以前「道知事」だった堂垣内尚弘さんが『第九回日本土木史研究発表論文集 1989年6月号』に招待論文の形で『北海道の道路』という論文を発表されているのですが、その「北海道の道路整備の沿革」の項に当時の「道路築造基準」という表がありました。それによれば『10年計画』における県道の道路築造基準では「道路敷地幅」が12間(約20m)、本当の「造成幅員」は2.2~2.5間(4~4.5m)となっています。「イタラタラキ駅逓所」の説明板にある「道路幅を十二間として・・・」というのは「道路敷地幅を十二間として・・・」とするか「道路幅を2.2~2.5間として」とする方が分かりやすくていいのではないでしょうか。
ご興味のある方は下記URLでこの論文をご覧下さい。
<参考資料>http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1989/09-0001.pdf#search
4. 駅逓所
鉄道のない時代の駅とでもいえば良いのでしょうか、『道の駅』(?)どっかで聞いたような。
ここ「イタラタラキ駅逓所」は港の町、広尾から十勝の開拓の中心地帯広まで、原始林の中の道を、長距離の旅をしなければならない人たちのために、食事、宿泊、人夫、替え馬などの便宜を与えるために設置されたのですが、荒野の道を延々と歩き続けた旅人が遠くに見いだす小さな灯火。この時代、駅逓所はどんなにか貴重なものだったことでしょう。
半官半民で開拓史から運営費を受け、取扱人のもとに数頭の馬が常備され、人足もいて宿泊や食事の他、次の駅逓所まで貨物や所によっては郵便物運搬等の仕事も請け負っており、当時の輸送・旅 には欠かせない施設でした。
このような施設は江戸時代『運上屋』『会所』として全国にあったが、明治時代になり廃止され姿を消すのですが北海道ではまだ必要とされ新たに駅逓規則が整備され、最盛期には全道で200箇所以上、十勝にも14箇所以上あったそうです。鉄道開通にともない必要性を失った駅逓所は次々と閉鎖され1948 年駅逓制度そのものも廃止され歴史を閉じたのでした。
仕事柄、建物としても興味あるところですが、残念な事に十勝管内ではもう残っていないようです。ただ全道的には現存するものや文化財として再建されたものなどまだ見られるようですので、そのうちどこかで出会いたいものです。
<参考資料>http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1989/09-0001.pdf#search