青年
- 久慈建築工房
- 2007年10月3日
- 読了時間: 3分
彼が亡くなってから2週間があっと言う間に過ぎて行きました。
私と彼とのつき合いは振り返つて見ると23年程が過ぎていました。
私は彼との間には、なかなか相容れないものを感じながらつき合って来た様に思います。
彼から私を見ると、一業者かも知れません。
彼と書く事は大変失礼にあたるのですが、あえて「彼」と書いた方が実像が伝わりやすいような気がします。彼からはとても長い間、いろいろなものを作らせてもらって来ました。
それは私が鳴かず飛ばずの頃からでした。
「今もそう大差はありませんが」事務所から始まり、彼の住む2世帯住宅・・・大きなものから片手で抱えられる様なものまで。それでも長い間、私の気持ちは仕事上の付き合いを越えるまでには至りませんでした。私の偏屈な性格がそうさせているところも大きいようなにでさうが・・・。
今から6年ほど前になりますが、彼からこんな依頼がありました。
「ここを桃源郷みたいな所に作れないか」というのです。そこは帯広から車で40分程走ったところで、国道から少し入ったところでした。そこは丘陵地帯になっていて、大木に成長したエゾ松、カシワの生い茂る広大な森なのです。
とんでもない規模なのです。私の様な零細工務店に持ちかける話では無い規模なのです。でも彼は私に構想を作れと言うのです。私は全く躊躇無く「2週間後までまとめます」と返事をしてしまいました。
なぜ2週間と期限を切った理由はと言いますと、彼は気が短いからと言うだけなのです。しかし、私の心はわくわくしていました。
彼はこの仕事であくまで利益を出し、また自分の理想卿に共感してくれる人達の村を作ろうとしていたようなのです。私もこの様な壮大 (私から見ると)な話には壮大なプランで答えなくてはいけないと考え、「桃源郷」とは誰にも知られてはいけない事が第一条件なのです。
まず、ここへ入るためには丘を切り開くのではなく、トンネルを堀り、トンネルを抜けたところに雑木林を作り、・・・。住宅のプランを5つ程作り、丘陵地帯の粘土模型の上に配置し、2週間後に彼のところに持って行きました。模型を見た時、彼の表情は喜びと不安が入り交じっていました。
ここで「不安」がよぎらない人はほぼ「ペテン師」の方に入るのでは無いかと思います。
「不安」の裏には「可能性」があるはずと勝手に私は思いました。
まず「桃源郷」には簡単にたどり着いてはいけない訳を説明し、その為には「薄暗いトンネル」と、鬱そうとした雑木林を潜り抜け、するとパツと明るく視界が開け・・・。
ここまで話を進めても彼は腰が引けて無い様なので「橋」と「せせらぎ」の構想をダメ押しとして出してみました。「桃源郷」へ入る為にはもう一つ無くてはならないものが「せせらぎ」とそこに掛かる「橋」・・・。
結果としてこの構想は実現する事はありませんでしたが、私の「脳」の活生化に大いに役立ちましたし、伸び伸びした幾つものプランが私の引き出しの中に残りました。 彼はいつも少年が語るような、やや「壮大」な仕事を私に依頼もしてくれましたが、テーブルとかデツキなどなど小さな仕事もとても楽しくさせていただきました。
彼は「夢」を失いませんでした。青春の真ん中だったのではないでしょうか。
かれは78歳で亡くなりました。


